ここは何も降らない

泣いてる日は、手のひらで猫を作り口にそっと入れる

よわい

 

歳をとるのがこわい。いずれ歳をとるのに、年齢でマウントをとる人や、若さを切り売りして生きてる人たちを見ると絶望的になる。そういう人たちが歳をとったらどう生きるか考えてしまう。

 

 

多分そういう風に若さの華やかさと共に生きられる人たちは、歳をとったら別の生き方を得るんだろうと思う。中にはそうじゃない人もいるだろうけど。

 

だから本当は、そういう人自身に対するものでなく、そういうコンテンツがいつまでも死なずに存在することへの恐怖だし、私自身が歳をとっていっても、そのコンテンツは形を変えず、歳もとらずにあり続けるのがめちゃくちゃ怖く感じるという話をしたい。そしてそのコンテンツがあるからか、その渦中に自身も(これも年齢マウントみたいなものだな、つらい)歳をとることにもマイナスイメージを持っていて、歳をとることがめちゃくちゃ怖いという話をしたい。

 

 

30歳になっても、50歳になっても、70歳になっても、死なない限り生きないといけない。そして人と関わっていかないといけない。

 

そこで生きていく上で起こる老化現象について自分だけで完結する出来事ならいい、でもそうじゃない。ああ最近目元にしわが見え始めたなと感じたら、瞬時に誰かに会った時の反応を私は気にし始めてしまうんだろう、そういう相手の反応を考えるのがこわい。それが当たり前の現象だとしても、実際そういうことがあってもどうせ受け入れてしまうとしても、そういう恐怖を今現在自分が抱えているということが何よりつらい。

 

本当にどん底へ行くように辛くなってきた。生きるのをやめたくなってきた。どうすればいいか、どうしようもない。若い以外で面白みがあるものがあることもなんとなく分かる。

 

だけど、それは気休めであり、若いコンテンツは自分を惹きつけたことも事実だったんだとなるはずだ。そういう一貫性のなさを生きていくんだろうというのも多分分かる。『一貫性のなさ』という言葉以外(新しい趣味を獲得して生きるとか)を使うことができるのも分かってると思う。考え方だと思う。

 

でも、自分の中では一貫性のない生き方として、猛烈に存在し続ける気がするのだ。対して考えてもないけど考えすぎたように気分が悪くなってくる。

 

とにかくもう歳は取りたくないように感じる。14歳〜20代前半くらいの若いままずっとずっとそれがいい。ずっとそれで生きられたらいいな、世の中は進むけど、同じ人がずっと生きてるような。でも、もしそんなことがあったら故人がかわいそうになってきた。理想を語らず、自分がどうにかなった方がいい気がしてきた。

 

こんなことを言っていてもどうせ汚く生きるんだ。考えすぎたようなのは自分がちょっと引きこもってるからだ。生きていたら複雑さにそんなことを忘れられるんだ。忘れることで美しく生きられるかは別だけど。早くどこかへ行けたらいいな

無題

 

ちょっと散歩に出たい。散歩に出て冷たい空気を自分に溜めて、ああもうこんな季節かとしみじみしたい。

 

外は家を出ればあるので、すぐやってしまえばいい。まあでも外に出るのは着替えないといけないし大変な気もする。着替えるのは大変だ、新しい服を1年くらい買ってないと思う。親の服を借りて着たりしてたら、服を買う意味が分からなくなったからだ。なにか服を買おうという意気込みで服を見るとつかれる、つかれる、つかれると言った感じで疲れてしまう。服のデザインは無数にあることに気づいてしまうし、ファストファッションにもいいなと思えるものがたくさんある。そういうのが疲れる、なんで高くもないのにやたら個性の強そうなオシャレっぽいものができるんだとのまれてしまう。

 

 

途中から詳しくもない服の話になった。3日続けて書いてみたブログのすべてで、何かしらの自分の中の違和感を書きまくってるのは、自分の書いてるものが充実していない人生を鏡のように映すものだからかもしれない。

 

せめて夢は起きた時の喪失感がない程度の幸せなものを見よう。

待つ

 

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ついさっき、レモンを蜂蜜に漬けた。レシピを検索して、やっぱりレモン切って蜂蜜につけるだけなんだなとなった。

 

作る手順は簡単ではあるけど、ただ1〜3日くらい漬ける必要があるのが長く感じる。それに理由があるのは分かるけど、感覚的には3日経つとなんかできてるような感じだし、単に待つことが苦手だ。もっとそれに付け足せば自分はすぐ食べたいわけで、明日や明後日にも食べたいと思えるかわからないとかそういう理由だ。

 

だけど、最近は1日経ったのか、3日経ったのかもよく分からなくなってきた。時間の感覚が2年前くらいと違う。とても早く過ぎるのに、2日前のことをよく覚えてなかったりする。

 

よって、レモンのはちみつ漬けの何日か待たないといけないことに対する自分の意識は変わってしまったみたいだ。幼い頃にゲームソフトの発売日とか、地元のスケートリンクが解放されるのが待ち遠しく、逆に時間がゆっくり過ぎたような感覚を、今はついさっき漬けたレモンのはちみつ漬けに対して感じることはできない。

 

レモンをはちみつに漬けただけのものだからそう思うだけだったらいいなと思う。あの時はゆっくり時間が流れることを恨んだけど、失ってしまったものや、自分にないものはいつも特別に見える。

 

結局言いたいことは、時間の感じ方が歳を取るたびに短くなるようなことなく生きたいということだった。ジャネーの法則に逆らいたい、長すぎるって感じる人生はどうかとも思うけど。

 

P.S. 写真のレモンがちゃんと漬かってないことに気づいた。レモンというオシャレアイテムを登場させたことに誇りを持って開き直ることにする。

ベッド

 

昨日、自室にあるベッドがなくなった。

 

重さとベッドの構造や家の構造に文句をいいながら、隣の部屋にベッドを運んだからだった。

 

運んだ理由は、隣の部屋を自室としてる家族が欲しいと言ったからで、私が来年あたり家自体を出て行く予定みたいなのがあるからだった。私の指す来年あたりは、今から4ヶ月後ぐらいなんだし、今やらなくても良いじゃないかと文句を言ったけど、本当に泣かれたので仕方がなかった。

 

大分長い間使っていたから(家族だとしてもそれを譲るのはどうなのか)今はとてもさみしい。

それが何であれ、この世にいなくなってしまったり、形を変えたりしてしまうのもさみしいけれど、今も形を変えずに存在するのに、それが自分のものでないというのはすごくさみしいことだと思う。

 

今は片付いていない部屋に頑張って布団を引いて寝ている。ベッドが部屋にあるようになったのは、小学2年生の時とかだから、それから本棚が2つになったり、PCを置いたり、よくわからないダンボールによくわからないものを詰めていたり、他のものだって前より増えた。減ったものもあるんだけど。でも、ベッドがないという点で私の部屋は7歳だか、8歳の時と一緒だ、そう思うと不思議な感じがしてくる。仕方がないのでこじつけ気味であることには目をそらし、ベッドがないことを受け入れてみる。

 

それにしても布団にしてからまだ1日だけどくしゃみが増えた気がする。やっぱりベッドがあった方がいい。過去をふり返らずに生きることは人間にはすごく難しくていやになった。

 

それと、すごく関係ないけれど、90年代前半のドラマの再放送をやってるので最近観てる。ドラマは恋愛ものなのでそこに時代は感じないけど、影響を受けてるものがアメリカ一直線のように見えたり、ファッションや、高そうなビールには時代を感じる。90年代前半っていうのは私の行ってみたい世界だから観ていておもしろい。

 

だけど、カメラが急に集中線が入ったかぐらいの勢いでズームするのは古くさくて私は好きじゃない。そんなことを思ってたらこの前、いま放送されてるドラマでそれを観た。やっぱり古くさかった。あれをやるだけで古くさいと感じるってむしろ魔法で呪いなのか。