ここは何も降らない

泣いてる日は、手のひらで猫を作り口にそっと入れる

 

 バイトを始めた。自分は暇があるとベッドに何時間もいて段々と気持ちが沈んでいって悶々と悩むみたいなことが多かったから、それがバイト先のこの人苦手だなみたいな日常とつながっていてかつどうしようもないというほどではない悩みに変わって安心していた。

 

だけど、その調子で学校がありバイトをしている時は良かったけど、冬休みになってバイトだけになったら学校行ってない分体力が余っていて、また悩み始めてしまった。

 

クリスマス当日のバイト上がりに、スマホを見たらしばらくラインができなくなると連絡の途切れた友達(見返したらメッセージを取り消していた、なにを書いたんだろう)、久しぶりにやり取りをした好きだった人から来た返事には心から思ってもないような嘘が書かれていた、ラインのメッセージをまともに返してくれない母親(ここはツイッターじゃないと思う、この人は多分子供を産んじゃいけない人だと感じていて子供を産んじゃいけない人のことを自分はよく考える)

 

歩いていたら、勢いよく飛び出してくる車に驚かされる。それに対してめちゃくちゃな悪意を感じてむかつく。一度車とぶつかってから、絶対轢かれないという確信は消えたので車がこわい。むしろ昨日(30日)は死んでしまいたかったから轢いてくれてもよかったんだよと思い始める。

 

ムカついたから酒を飲んだ、自分はアルコール耐性が弱く心臓が大きな音を立て皮膚がビリビリしたりして、なんだか吐きそうになっていた。うるさいと何度も口に出せたのは気持ちが良かった。

 

死のうと1週間に一度くらいは思っている、いつもこれがこうだから死ねないと思いとどまってまた無駄な時間を産んでしまったと後悔する。自分は何か誰かの心に引っかかるようなものは作れないと絶望することがあって、誰かとなにも関係を築けていないとも思うから、生きている意味が分からなくなる。なにかを作って世界とつながっているわけでもないなら、誰かのために生きるしかないと感じているのになにもできない。

 

 

 

 

夏休みの予定など

 

やっと夏休みになった。

 

前回死にたいような気持ちを書いていたけど、夏休みが始まることで元気になってしまった。少し前はおかしいくらい元気で、自分でこわかった、掃除用具をいっぱい買って掃除をした。掃除の過程はまあ楽しいと思ったけど綺麗な部屋で生活をしている自分を想像することは上手くできなかった。風呂を念入りに掃除したから今なら舐めることもできるみたいな事を書こうとしたけど舐められないと気づいて気持ち悪くなった。

 

学校は8月まで授業をやっていて、休みがなかなか始まらなかった。去年は浪人生という名のニートで毎日休日だったにもかかわらず、高校までの7月の下旬くらいから夏休みが始まる感覚を捨てきれないでいたからものすごく違和感があった。暦が手前にいて、自分が後ろにいるようなずれた感じ。

 

テストの終わった日は友人と遊んだ、昼から夜中の1時半くらいまで一緒にいてまだ酒を飲めないから素面なのにおかしなテンションでいた。おかしなテンションといっても、やることは夜の空気にあてられて元気になりひたすら話しながら歩くみたいなことをしているのだった。だから夏休みの始まり方は賑やかだけど静かな始まりだったと思う。

 

休みの間にすることについて、まず私には実家に帰る予定がある。そこでする予定がないので多分寝ていると思う、部屋の片付けとかをするかもしれない。アニメとかを見て過ごしたい。

 

天気の子を最近見た、自分は1度で消化しきれず、2度見たんだけどそれでも分からないことは多い。たくさんの人が天気の子の感想や解釈を書いているから、それを読むのが自分で本編を観るのより楽しいと思ってしまう。語り口は様々だけどアニメの系譜の目線で書かれているものが面白かった。私は本編を観ている時は村上春樹のことを意識していて、例えば"100%の晴れ女"という言い方は『四月のある晴れた朝に100%の女の子に出会うことについて』だなと思うし、ツイッターで調べても同じことを言っている人はいた。他にも電車で家が揺れることに主人公が驚く場面は『チーズケーキのような形をした僕の貧乏』でも家が揺れる描写がされていることを思い出した。これは単に東京の表現なのかもしれないけど。色々読んだ解釈とかを踏まえてもう1度観たいと思っている、新海誠がまた儲かってしまう。

 

夏休みが始まることでなぜこんなに元気になれたのかと考えてみると、好きだった人に会えるかもしれないという期待からだった。メッセージを4ヶ月無視されている時点で閉口を禁じ得ないのに、最近ツイッターのフォローが返ってきたからまだ大丈夫かとも思っている。あっちから言ってくれた「今度行こうね」はもはや呪いで、今度行こうと言ってくれてもいつもこっちが具体的なことを言わないと話が進まないのを知っている。相手と自分との今度行こうねにどれだけ温度差があるのか知らないけど、今度行こうねで自分が救われていることを相手は本当は知ってるんじゃないかと思う。こんなことを悶々と考えなくても好きでいたくて泣けてくる。

 

 

 

ぬるっと生きてしまっている

生きている意味が分からない。

 

前進がない、これといった生きがい(これがあるからまだ生きていようと思うような希望)がないからいつ死んでも同じだなと思う。

 

電気料金の支払い締め切りが自分の誕生日だった、気がついていたけど、もう少しで20歳だと気づいた。10代で死ぬことに対してそこまでの輝きは前ほど感じないけど、死ぬなら誕生日の前までに死んだらいいと思う。面白いことも言えないし、考えはまとまらないし、何をやればいいのかわからないし(これは自分の努力が足りないだけだけど、全ての出生が親のエゴだとするなら自分は悪くないということを時々考えてしまう)、なんとなくエヴァンゲリオンを見てみたり、寝てみたり、インターネットをしたりしている。

 

前進が欲しい、前進があるとしたら歳をとることだけで、後はやりたいのかもよく分からないけど時々楽しいなと思うようなことをかじってかじってめちゃくちゃにしているといった感じだ。

 

本当は構ってほしい、心配してほしい。でも、自分の痛みはあまり美しくないから人目をひかない、そういえば容姿も良くない、容姿にあまりこだわりはないけど、時々ほんとうに綺麗な人を見て苦しい。

 

仲のいい友達に、自分が何かやってしまいそうで怖い。友達というカテゴリがあったとして、その中では初めて感じたぐらいその人のことをすごく好きだけど、相手は大したことないんだろうと思うといつもの一方通行の重たい愛だ。すごく好きだとはずっと言えないんだろうとも思う、いやいつか言いたい。

 

 

いくつかの悩みを誰にも言わないで生きている。自分の大好きな友達は自分と境遇こそ違うけど、自分の持つ悩みに関することと似たことを経験していてシンパシーを感じた、でもその悩みを話そうと思ったことがそもそもないから、話す気にならなかった。時々、自分の苦しさはそういう事情とそれに対する頑なさから来ていると強くと思うことがある。

 

つまり、知り合いの繋がっていないツイッターアカウントがほしい、なんでも言いたい、誰とも繋がっていないここですらはっきり言えていないから駄目かな。後、リアルのアカウントでフォローした高校の時に好きだった人(1年以上会ってないし、最後のメッセージも既読無視だけど本当はまだ好きだ)にはフォローを返してほしい。気持ち悪くて、気持ち悪い、なんで生きているのか。前進しない、生きていようと思えない、生きがいがない、いつ死んでも同じだと感じる。

生きることはむずかしい

 

暴力が絡んだ凶悪な事件をよく耳にする。

 

何か起こるたびに、人間の破綻した姿に私は驚いてしまう。

 

人間は、理性的であるということを前提に話を進めてる気がする。だけど、それと外れたところがあるような気もする。

そして、そういった外れた種類の出来事が、報道の中にはあり、自分たちが受け取るものは報道のもつ性質として起こった事を受け取る訳だから、それらが抗いようがない事と認識してしまう。

 

ずっと前、事件がまったく起こらなくなったらどうなるのだろうというような事を思い浮かべたことがある。そしてその次の瞬間には、そんな事はこれからずっとないだろうと考えていた。

 

世界は、嫌うものとして悪に属する範囲をもちながら、悪に完全に打ち勝つことには完全に負けていて、それでもいい方向に向かいたいとは思いながら多くの人々は生きていると私は感じている。でも、完全に勝つことができないのに人間としての意味はあるんだろうか。

 

そんな事を書いていて思ったけど、世界の人口に対しての殺されて亡くなった人の割合とかって年々減ってたりするんだろうか。なんだかそういう数字がないと希望が持てない気がする。

殺されて亡くなった人といえば死刑執行された人というのも殺されて亡くなったといえるんだなとか浮かんできて、また違う問題の発生に頭をひねっていた。

 

恐ろしいことが起こると、自分もそれに巻き込まれるんじゃないかと考える。実際いつ起こるかは本当に分からないものだろう。報道で触れる凶暴さに人間の限界を感じ、こうやって破綻したまま生き続けるくらいなら人類は消えてしまうべきだろうとすら感じる。

暑い日にしたこと

 

今日のさまざまなブログに何度あついと書かれるんだろうと考えたら、工夫を凝らさないといけないと思った。

 

妥協をしてしまうのは悲しいことだ、暑いという言葉の抽象性に乗っかってしまうのは卑しいことだ。でも今日は暑かった、私の死んだクリエィティブは暑さにやられ既に死んでるのに追い討ちかけられちゃったし、仕方ないよねとメタっぽいことを書いとけば救われる日もあるよね。

 

今日は報道されるくらい暑い日だったらしいし、実際にとても暑かった。

 

去年は学校に行ってなかったのでほぼ休日みたいなものだったけど、現在学校に通っている私には平日と休日の位置にあるものたちがあり、休日に済ませたい用事がいくつかあったから外へ出ないとけなかった。

 

行った先は、100均、本屋、スーパーだった。自転車を持っていないから歩いた。服装は極力涼しいものを選んだ。

 

家を出た瞬間、感じた熱波を夏の猛暑日みたいだと思ったけど、歩いてみるとそれが今まで感じたことのない暑さだとわかった。カラッとしていて、巨大なドライヤーが温風を出している。じっくり焼かれてるような感じがした。

 

 

まず100均へ、この時点で遠いのだけど、頑張って歩いた。途中、自転車に乗り厚い綿のカーディガンを肘まで捲り上げてる人とすれ違った、洗剤のいい匂いがした。

 

100均にて、入った瞬間エアコンの効いた店内の涼しさに体が馴染んでいくのが分かった。サンダルを履き始めたのでとりあえずペディキュア用のネイルと三ツ矢梅という梅ソーダ系の炭酸を試しに買った。

話が逸れるけど、私は梅ソーダが好きで、特によく飲んでいたのは伊藤園のものだった。伊藤園の自販機をみると嬉しくなるくらい梅ソーダが好きだ。ダイソーを出た時、伊藤園の自販機があることがわかり、どんなものが売ってるか見たら梅ソーダはやはりなかった。私たちが感じてるのは夏のような厚さでも、まだ5月の終わりだってことに混乱してしまう。 

 

本屋へ向かう、途中また同じ人とすれ違った。自転車で私と逆の方向へ進んでいてもしかしてと思ったところですれ違い、先程と同じいい匂いがしたので間違えてないという確信を持てたのがよかった。本屋では雑誌を2冊買った、クロッキー帳が欲しかったけど今回はやめておいた。

 

気温はどんどん暑くなっている気がした、15時前とかだった気がする。天気アプリで見た気温は37度だった。こんな気温でも普通に歩いて買い物ができるならどうでもよかった。

 

 

友達がバイトしてるスーパーへ行って、友達の打ってるレジに並んだ。いつも見る友達のようだったけど、しっかり店員としての形もある気がして、社会の回り方に思いをはせたりした。声をかけるまで相手は気づかなかったらしい。

 

長い時間をかけて、家に帰った。公園に寄った。日陰は涼しいというより、あたたかかった。

 

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昼寝をしたら、汗をたくさんかいた。夢で手足がしびれたりもしていた。普通に歩いて買い物できるとか書いたけど、暑さには結局負けてるみたい、勝つ気はない。

 

5月の終わりに、猛暑を経験したこと。4月に引っ越してきた土地で、来年もこんなかもしれないけれど、今日は特別な気がして書こうと思った。

 

 

 

 

 

どうしようもない気持ちになった話

 

昼に会った知り合いと、遊んだ。

 

その人とは、たまたま会った。午後13時すぎ、偶然会い、21時近くまで一緒にいた。そんなよく知らない相手だし、その人の事を良く思うことは自分は一生できないと思うのに一緒にいてしまった。本を読み、喫茶店に入り、水を見て、長い道のりを歩き、足が痛くなるので何度か座れるところに座った1日だった。

 

今日はいい天気で、夕方には印象派の絵画のような夕暮れだった。それでも夜は惜しくもきてしまう。今思うと今日は夜が来なければよかったんだと思う。

 

19時くらい、ベンチに座り話をしていた。自分は、あまり自分の話がしたくない。理解されないと思うし、同情されていろんなことが淀んでしまうような気もしてしまう、アイデンティティとして盛り込みたくない部分がある。

 

だけど最後の方には、夜らしく暗い話をした。身の上話的なこともした。自分の苦しさみたいなのを話されて、相手にいえるような苦しさのある人はいいなと思った。わたしの方が不幸だと言いたくなりましたが、そういう痛みを比べるような思想がそもそも嫌いだったことを思い出して、反省した。反省をしからきっと立派な人間になれると思う。

 

その場で自分は性別を名乗りたくないという話をしたりした。そして子供を産みたくない話をした。そういうことをみんな言うよという話をされたので、そういう次元の話じゃないと自分は言い返していた。暗い中で泣いていた。悲しくもないんだけど、悲しくなって泣いてしまう。タガがいつからか外れている気がする。

 

後に、相手は女の子はどう〜といった話をそれでも続け何も分かられていないのだと少し不愉快だった。

 

わかり合うことはできないだろう。

 

それなのに、一緒にいてしまったのは相手に良いところを見いだしたかったからだと思う。相手は、私が好きだった人に似てる。(表に現れた形として差はある)

 

似ていると感じるところは、私自身と趣味が近いところ、それでもその趣味から別のものを感じてるところ、別のものというのが崇高そうに見えるところだった。

 

重ねてしまうのに、どうしても重ならない。好きだった人は、この人に恋人ができたらと思うと苦しい気持ちになった、誰にも取られたくなかった。

 

好きだった人に重ねる相手は、恋人ができたら新しいおもちゃを見つけたのかなと冷たく思ってしまうんだろう。いやちょっとは悲しいかもしれない。

 

最後に、家に行っちゃダメなのって聞かれた。ダメに決まってるだろう。

 

おもちゃにしたのは、自分の方かもしれない。こんなことを言うから、滑らかな人間関係を築くことは自分にはむずかしく、こんなことを言ってしまう。

 

 

 

 

 

いのり

 

正月にやるテレビ番組はいつもつまらないし、もっと言えば大晦日の18時くらいからいろんなことがつまらなくなってくる。なんでかは分からないけど、理由はくだらないはずなのに大晦日もお正月も大きなイベントだから嫌になる。

 

6月に戻ろう、なにも考えなくていい日々に。冬は寒くて、雪があって歩きにくい。『うまく歩けない』なんてそんなニュアンスのセリフは言の葉の庭で聞いたものだった。

 

あの映画では比喩だった。だけど、『うまく歩けない』ことは、そのままの純粋な意味で雪の積もる現実で起こってることなんだと気づいた。いやになる、いやになる、いろんなことがいやになる。

 

散歩に出たいと時々思う。でも私が求めてるのは草の匂いや風の心地よさだ。冬が終わり雪が溶けると草の匂いがする、海が近いからちょっと生物チックな匂いもする。そういう世界が私の存在すべき場所くらいに思ってる。ひたすらに寒くて、お風呂に入ると足がおかしかったことに気づくような季節は早く終わることを祈る。