ここは何も降らない

泣いてる日は、手のひらで猫を作り口にそっと入れる

ベッド

 

昨日、自室にあるベッドがなくなった。

 

重さとベッドの構造や家の構造に文句をいいながら、隣の部屋にベッドを運んだからだった。

 

運んだ理由は、隣の部屋を自室としてる家族が欲しいと言ったからで、私が来年あたり家自体を出て行く予定みたいなのがあるからだった。私の指す来年あたりは、今から4ヶ月後ぐらいなんだし、今やらなくても良いじゃないかと文句を言ったけど、本当に泣かれたので仕方がなかった。

 

大分長い間使っていたから(家族だとしてもそれを譲るのはどうなのか)今はとてもさみしい。

それが何であれ、この世にいなくなってしまったり、形を変えたりしてしまうのもさみしいけれど、今も形を変えずに存在するのに、それが自分のものでないというのはすごくさみしいことだと思う。

 

今は片付いていない部屋に頑張って布団を引いて寝ている。ベッドが部屋にあるようになったのは、小学2年生の時とかだから、それから本棚が2つになったり、PCを置いたり、よくわからないダンボールによくわからないものを詰めていたり、他のものだって前より増えた。減ったものもあるんだけど。でも、ベッドがないという点で私の部屋は7歳だか、8歳の時と一緒だ、そう思うと不思議な感じがしてくる。仕方がないのでこじつけ気味であることには目をそらし、ベッドがないことを受け入れてみる。

 

それにしても布団にしてからまだ1日だけどくしゃみが増えた気がする。やっぱりベッドがあった方がいい。過去をふり返らずに生きることは人間にはすごく難しくていやになった。

 

それと、すごく関係ないけれど、90年代前半のドラマの再放送をやってるので最近観てる。ドラマは恋愛ものなのでそこに時代は感じないけど、影響を受けてるものがアメリカ一直線のように見えたり、ファッションや、高そうなビールには時代を感じる。90年代前半っていうのは私の行ってみたい世界だから観ていておもしろい。

 

だけど、カメラが急に集中線が入ったかぐらいの勢いでズームするのは古くさくて私は好きじゃない。そんなことを思ってたらこの前、いま放送されてるドラマでそれを観た。やっぱり古くさかった。あれをやるだけで古くさいと感じるってむしろ魔法で呪いなのか。